

東京・晴海の地に、2019年3月『ハルミラボ』と呼ばれる「研究開発ラボ」が誕生しました。
ラボを立ち上げたのは、PFDeNA。ヘルスケア領域を新たな事業の柱として伸ばしてきたDeNAと、AIベンチャーとして知られるPreferred Networks(以下、PFN)による合弁会社です。『ハルミラボ』は、少量の血液検体から得られるデータをディープラーニングで解析し「14種類のがんを早期に発見する」という世界でもあまり見られないAI×ヘルスケアの取り組みを行っている研究施設です。
製薬メーカーでも大学研究所でもないIT企業のDeNAとPFNが、なぜここまでチャレンジングな投資に踏み出したのか。アカデミアと企業の研究職という異なるバックグラウンドを持つ、現場の最前線に立つ2人の対談をお届けします。
対談前編ではPFDeNAが研究開発ラボを持った理由を、後編では新しい検診技術を確立するために必要なことを聞きました。
14種のがんを、ディープラーニングによって解析する
——『ハルミラボ』ではどのような研究が行われているのでしょうか。
西沢 隆(以下、西沢):少量の血液から14種類のがんをAIによって早期発見する、という新しい検診システムをつくっているんです。
—— 一度血液を調べるだけで、14種類のがんが発見できるのですか?
西沢:まだ開発段階ですが、カギを握っているのは、血液中に含まれるmiRNA(マイクロRNA)という物質です。
miRNAは、人でいうと2000種以上あり、これら分子の発現パターンが、疾患状態によって異なる可能性が示唆されています。
血液中のmiRNAを網羅的に解析することで、各種がんに特徴的なパターンを見いだすことができれば、血液を調べるだけで14種類のがんにかかっている可能性が評価できます。もちろん、医療としての診断行為は医師が行いますが、その判断の一助に有効な情報になるだろうと考えています。
このがんに特徴的なパターンを明らかにするため、ハルミラボでは日々、がん患者さんの血液検体のmiRNAを次世代シーケンサーという機器で読み出し、データ化しています。

1980年、栃木県佐野市生まれ。1999年京都大学農学部入学。同大学院卒業後、2005年新卒で大手製薬会社に入社。がん領域での新規標的分子探索の研究開発に従事する。2011年オープンイノベーションを目的とした子会社へ出向。東京大学先端科学技術研究センター、および国立がん研究センターとの共同研究プロジェクトに従事。2019年1月DeNAヘルスケア事業部へ転職。
神田 将和(以下、神田):確固たる前例がないため日々の研究は試行錯誤の連続ですね。
——こうした研究開発ラボを企業が持つのは珍しいのではないでしょうか。
神田:製薬会社や、大学をはじめとする研究機関にはもちろんありますが、IT企業が自前で持つケースは極めて珍しいかもしれませんね。
西沢:自前で研究開発ラボを持った大きな理由は、フレキシブルな対応が必要だったからです。
新しい検診技術の確立であり、実験データを取るだけでなく取ったデータをPFNさんに解析してもらい、その結果を受けてまたチューニングする必要がある。その際、自分たちで手を動かしてどの作業が最終結果にどう影響しうるのかという点をイメージできていないと、スピーディーに的確な改良ができません。そのため、自前でラボを持つ必要があったのです。
本検査システムは、社会実装するにあたりPMDA(独立行政法人医薬品医療機器総合機構)という国の審査機関から承認審査を受けた上で世に出すことを考えています。その際にも当然、どのようにデータを取得し、どのように解析したのかが厳しく審査されます。そういった観点からも、自分たちで納得できるデータ取得体制を構築しておく必要がありました。
ラボ設立は、事業に真剣に向き合った当然の選択
——具体的に、どのようなプロセスを経て、最後のAI診断につながっていくのですか?
神田:そもそも、どうしてこのやり方でがんを発見できるのか、という問いがありますね。
細胞はエクソソームと呼ばれる顆粒状の物質を細胞の外に放出します。このエクソソームの重要な役割の1つとして、細胞間のコミュニケーションツールとしての機能が知られています。
これは、エクソソームの中にメッセージを詰め込んで、別の細胞に届けているようなイメージですね。このメッセージの役割を担うものの1つが、miRNAです。エクソソームは細胞から放出され血液中にも流れてくるので、この中身を読み取ることでがん種ごとのパターンを見つけられるのではないかと考えられています。

1976年、山口県防府市生まれ。博士 (医学)。鳥取大学大学院 医学系研究科生命科学専攻。埼玉医科大学 ゲノム医学研究センター研究員・助教、順天堂大学 難病の診断と治療研究センターにて原因が明らかになっていない希少疾患のゲノム解析を中心とした研究に従事し、2018年9月DeNAライフサイエンスへ転職。
神田:これを踏まえてプロセスを追うと、まず血液検体から我々が検討した手法でmiRNAを抽出します。次に、抽出したmiRNAから配列情報を読み出せるようDNAに変換し、次世代シークエンサーという読み取り機にかけます。これにより配列情報が読み出されますが、この文字列のままでは、機械学習やディープラーニングには使えません。
そこで、解析に適した形に再度加工するんです。どういった種類のmiRNAがどの程度の量で存在していたのかを解析するステップを経て、ようやく機械学習やディープラーニングという解析に進むことができ、がんのパターンなのか、そうでないのかを見極めることができるようになります。このあたりのプロセスが、AI診断と呼ばれているところですね。

——血液検体を装置にいれたら、AIが簡単に機械学習してくれて……なんて世界じゃないわけですね。
西沢:じゃないんですよね、残念ながら。
——開発段階で特に苦労された点を教えていただけますか?
西沢:事業化を見据えての研究開発、という点ですね。
少量の血液検体から微量なmiRNAのデータをいかに安定的に取得するか、という点が重要で、こういった繊細な作業は人間が注意深く手作業で行った方がきれいなデータが得られます。ただ、人間は疲れる。集中力の波がそのままデータに反映されてしまい、微妙な手作業の差が解析に反映されてしまうとまずい。そこで、多くの工程に「機械による自動化」を取り入れています。

神田:自動化のメリットは数千回の処理をしても「間違わないこと」です。
自動化された機器による操作ならば、体調や気分によって仕上がりや処理速度に波が出ることはありませんので、ほぼ一定に作業でき、同じ品質のデータが出せる。そこで、機器が人間と同様に精緻な作業ができればいいということになります。
しかし、これがすごく難しい。機器には目が無いし、状況に応じて判断するということもできない。
例えば液を混ぜているときに、「泡が立ちそうなので、もうちょっとスピードを緩めるか」とか、「混ざり具合があまいから、あと2回多めに混ぜておこう」とか、そういう判断は機器にはできない。ここをいかに、機器が実行可能な手順書に落とし込むかが大事なんです。
この作業は、経験値がある人間にしかできない。スピードや角度・回数など、微妙で繊細な調整が必要で、泥臭くて地味ですが、最終結果に大きく影響を与える重要な部分でした。
——人間の精緻さと機械の正確さが両立されたら、すごいですね。データ取得の仕組み自体が製品の一部のようなものなのですね。
西沢:そうですね。だからこのラボは、事業化に向けた「開発拠点」なんです。そう考えると、作業は外注できないし、レンタルラボを借りてパパッとやるようなものでもない。
とはいえ、スペースにせよ、研究機器にせよ、それらを取り扱える人材にせよ、実際に成功するかどうかの不確実性が高い段階において相当な投資が必要になるので、本当にチャレンジングです。それこそ、製薬メーカーでも大学の研究所でもない私たちが、よくこの決断に踏み切ったなと。
私自身、解決に必要な血液サンプルを収集するために、各地の病院にご協力いただけないか伺っているのですが、「データはどこで誰が取得するの?」と聞かれます。
それはPFDeNAが実験までするイメージがないからだと思うのですが、「我々が行います。そのために自社ラボを作りまして……」と伝えると、「えっ?どこに?本当に建てたの?」と言われます(笑)。
先生方には誠心誠意、こちらのやりたいことを伝えているのですが、それでも製薬会社ではないですから、どこまで本気なのかなと疑問に思われるでしょうね。そんな時でも、この自社ラボは大きなコミットメントとして、本気度の証明に一役買っている気がします。

神田:そうですね。このプロジェクトは、こうすればいい、という正解が見えない。そうなると、自分たちのラボで実際にデータを取得するという選択は当然の答えとして出てきます。
真剣に事業化を考えるからこそ、真剣にサイエンスに向き合うことにもなるので、そのための試行錯誤の場が必要になる。「ちょっとやってみようか」という軽い意思決定ではなく、会社の本気度が感じられるので、当事者としてもやりがいを感じますね。
サイエンス発の事業化を目指し、自前の研究開発ラボ『ハルミラボ』をつくったPFDeNA。14種のがんをディープラーニングで解析し早期に発見する、という新しい検診技術の確立のため、チャレンジングな取り組みが続けられています。そんな彼らですが、ラボを設立する上で最も大変だったことは?後編に続きます(後編はこちら)
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執筆:箱田 高樹 編集:八島 朱里、川越 ゆき 撮影:杉本 晴