個人・社会の両方のヘルスケア課題を解決する、DeNA流アプローチ
2022.07.06
高額療養費制度の自己負担上限を引き上げる――。2024年末、厚生労働省の素案が報じられると、SNSには〈若いがん患者が治療を続けられなくなる〉〈子育て世代に重い出費がのしかかる〉という悲鳴があふれた。
そんな中、東京大学大学院の五十嵐 中特任准教授が、DeNAグループでヘルスケア事業を展開する「DeSCヘルスケア」のレセプト※データベースを活用し、「高額療養費制度は高齢者だけでなく若年層も支えている。若年層でも多くのがん患者が、制度変更によって恩恵を受けられなくなる」とする提言を発表。新聞やNHKなどのテレビ、国会質疑でも取り上げられた。
提言はどのように生まれ、データはどう社会を動かしたのか。五十嵐准教授と、データ構築とデータ特性の調査を担当したDeSCヘルスケアの西本 騰さんに舞台裏を聞いた。
※レセプト:医療機関等が公的医療保険の運営者に医療費を請求するために作成する「診療報酬明細書」のこと
目次
──今回の「高額療養費制度の上限引き上げ」に対する先生の提言はメディアにも取り上げられ大きな反響を呼びました。国会の議論でも注目されていたそうですね。
五十嵐 中特任准教授(以下、五十嵐): 活発に議論されていた数ヶ月間、生まれて初めて国会中継をひたすら見ていました。その中で上限が引き上げになった時の影響をどう見るのかという議論があった時に、「なかなかデータがつかめないんです」とか「高額療養費は所得などの条件を拾うのが難しい」という答弁がありました。
当然のことですが、高額療養費のデータはただレセプトを眺めているだけでは全くわかりません。自分自身、抽出条件でかなり試行錯誤した部分があったから、データを捉える難しさはよくわかります。ただ、「データが分からない状態で、なぜ『見切り発車』してしまうのか?」という疑問は、むしろ強くなりました。
提言のために、私たちは2024年の年末に急ぎ高額療養費のデータセットを用意しました。
一朝一夕には揃えられないものなので、自分たちが迅速に出せば他は追随できないだろうという確信はありました。進行中の議論に沿った、「後押し」となるデータなら、極端な話データがなくても政策は進むでしょう。しかし今回のように、放っておいたら止められない流れを、データを用いて覆せるという経験はなかなかできないことです。
──今回の取り組みが社会に影響を与えたのはなぜだと思いますか?
五十嵐: 幸いしたのは分析着手までのスピード感です。分析結果の修正希望が出てきて、再修正、再々修正の希望まで出てくる中で、全部に対応して「いや、この再々修正案でもまだ問題が残りますよ」と即座に対応できました。
実は取り組んでいる中で「こういうデータは出せるのか」「こういうデータはあるのか」といった話が色々な方面から来ていました。議員さんやメディアの方も含めて、「こういうデータがあるとすぐ表を作れてありがたいんですけど」というリクエストがたくさん来ていたのです。
データセットをあらかじめ準備していたことで、「上限金額が変わったら?」「疾患別に分けたら?」のようなさまざまなケースが出てきても、抽出条件を変えるだけで影響を推計できました。コロナ禍以前から、データベースを包括的に使用できる共同研究を進めていましたから、先ほどお話ししたように「全データを洗い直す分析」が迅速にできました。リクエストに対して数日間でデータが出てきたら、それは使われますからね。使いやすい形で加工できるデータセットを持てたというのが大きかったと思います。
即時性は、データ提供までに時間のかかる公的データベースでは成し得ないことです。「なんとなくこの領域が怪しいからちゃんと分析できるようにしとかないといけない」と準備していたのが一番大きかったかなと思います。
── この提言をしようと思ったそもそものきっかけは何だったのでしょうか?
五十嵐:2024年11月下旬に、医療保険部会において高額療養費の自己負担が引き上げられることが議論されました。もともと11月23日に「がん患者学会」で講演の予定があったのですが、ホストの全がん連・天野理事長から、高額療養費に関する話題を扱ってほしいとの依頼を受けていたんです。
まず、公的統計を用いて高額療養費の現状を調べました。通常ですと医療費の統計は、どのようなケースであれ、高齢者は高く・若年層は安くなります。しかし高額療養費は一件あたりの支払額でみると、若い人が多く所属している組合健保が最も高く、ついで国保、もっとも安いのが後期高齢者医療だったんです。
── それは意外な発見だったのですね。
五十嵐:はい。なのに世間では「高額療養費制度があると、高齢者が超高額な治療を数千円で受けられる」といったように、「高齢者のみが恩恵を受ける制度」という印象を与える誤った主張も多く見られました。
しかし公的統計から垣間見えた実態は、「高齢者は広く浅く・若い人は狭く深く」という図式です。ただ、公的統計では年齢別のデータや疾患別のデータは全く得られません。データを出さなければ、誤った理解のままで自己負担引き上げが進んでしまいます。何とか一石を投じるために、民間のレセプトデータベースを使った自前の分析を考えたんです。
── そこでDeSCヘルスケアのデータベースを活用することになったわけですね。西本さんは今回の調査をどのように進めたのでしょうか?
西本 騰さん(以下、西本): 最大の壁は「高額療養費をどうレセプトから見つけるか」でした。まず先生からいただいたオーダーを調べることから始めました。高額療養費制度については私も勉強不足で詳しく知らなかったので、これはどういう制度なのかということを整理して、その上でもう一回レセプトの仕様を整理しました。
高額療養費はレセプトでこう記録されるだろうという仮説を持って確認したところ、全ては取れないけれども、ある程度は取れますよということを先生にお伝えしました。困ったのはどこにも答えがないこと。検索エンジンで調べても情報が何も出てこなかった(笑)。「答えそのもの」がないのは当然として、何をどう調べればその「答え」にたどり着けるのか、その調べ方から手探りする必要がありました。
何が分からないのかを明確にし、どのような情報があれば先生のオーダーに対するアウトプットとして成り立つのか、イメージを固め、関連する情報がどこに存在するか見当をつけながら、関係者にも質問するなどして少しずつ不明点を潰していき、答えを作っていきました。
我々が答えを作るしかないというのが、ある意味しんどかったところですね。
五十嵐: 最初にお話しした通り、通常の医療費と違って、頼りにできるような公的統計はほとんどありません。ゼロの状態から高額療養費制度の実態を解き明かすためには、疾患や患者背景を問わず、データベースの基礎から掘り返す必要があります。そのためには部分的ではなく全てのデータベースを洗い直す必要があることを考えると、実質的にはDeSCヘルスケアのデータベース「一択」だったといえます。
年末年始の2か月間で、データベースの中から高額療養費の適用者を導き出す厄介な抽出条件も整理できました。データセットさえ用意できてしまえば、どんな付帯条件が出てこようがそれに対応できる状態を作ることができます。
── 今回の高額療養費で巻き起こった社会的な議論で良かった点はどんなところでしょうか?
五十嵐: 唯一良かった点があるとしたら、それはメディアでもかなりホットな話題として取り上げられたことです。これが世の中の共通テーマになったということ。
5年、10年前だったら「医療の問題なんだから、全部面倒見ようよ」で終わっていたところが、「高額療養費の上限引き上げをやめたとして、その分の財源はどこから出せばいいんだ?」という議論にそのまま移行しました。それは今までにはまったく無かったことで、これが「医療費の適正化」という、より大きな問題の議論につながったと思っています。高額療養費制度を持続的に運用していくためには、不要な医療費をできるだけ減らすこと、すなわち「医療費の適正化」が大切です。
── 適正化に対して、どのような対策が考えられるのでしょうか?
五十嵐:「セルフメディケーション」です。WHOの定義によると「自分自身の健康に責任を持ち、軽度な身体の不調は自分で手当てすること」。自身で健康管理を行うことや病気の予防を促進することで、軽症の受診を抑制したりして医療費削減と医療資源の有効活用を図り、医療費の適正化につなげます。
3月に開催された有識者検討会でもセルフメディケーションを使った人の医療費の変化を出していました。どんなに医療費のレセプトを見ても、例えばOTC医薬品※を買ったかどうかという情報は取れません。ですがアンケートでそれを取って、背後にあるレセプトと結びつければそういう情報が取れるのです。
※「Over The Counter」の略。医師の処方箋なしに薬局やドラッグストアなどで購入できる市販薬や一般用医薬品のことを指す。
西本: DeSCヘルスケアは、五十嵐先生と2019年から医療経済に係る共同研究をさせていただいています。レセプトデータだけでは「患者さんの声」までは拾うことができません。しかし私たちは、多くの生活者の方々に利用されている個人向け健康管理アプリ「kencom」の提供をしています。アプリを通じて、個人のQOLや労働生産性損失などを教えていただくことはできないかと考えていました。医療経済評価には欠かせない指標であることから五十嵐先生にご助言いただいてアプリで調査している情報もたくさんあります。
五十嵐:これを私は勝手に「能動的データベース」と呼んでいます。レセプトのデータベースが1億人分あっても、その人が花粉症の時に薬を買ったかどうかはわかりません。しかしアンケートで「あなたは花粉症の時にどうしましたか?」と聞けば一発でわかる。ただ、一方で単にアンケートだけでは「あなたの医療費はいくらかかりましたか?」と聞いても正解を答えられる人はほとんどいないでしょう。
医療費のデータが背後にある状態で、アプリユーザーにQOLを聞けたりセルフメディケーションを聞けたりできる。高額療養費制度を使っているかもしれないということがわかったけれど、さらに詳しく調べるならアンケートという手法を取れるのが、kencomとレセプトを連携させるデータベースの強みなのです。
──先生が取り組まれている「医療経済学」としての観点ではいかがですか?
五十嵐:医療経済学は、経済学の理論と手法を用いて、医療の供給・需要、資源配分、制度設計などを分析する学問分野です。ただ、学問としてのQOLとか医療費という話よりも、政策決定に寄与できるかどうかが肝だと思います。そもそも保険って何のためにあるのかなって考えた時に、究極的な目標は「可能性はすごく小さいけど、一旦起こったら非常に大きな負担になる」ことに対して、少なくとも金銭の不安は取り除こうというのが本来の趣旨ですよね。
起こる可能性と起こった時の負担を考えた時に、若い人の高額療養費というのは国全体の医療費から見た割合としては0.何パーセントと小さいけれど、1人当たりで見れば数百万円ぐらいの恩恵になる。それが一番守らないといけないところなのです。
その次にそこそこの数の人がかかり、負担もそれなりにかかる生活習慣病治療とかがあって、最後に花粉症のように多くの人がかかるけど負担が比較的小さいものがある。
厚労省の記者会見でも「一番守るべきところを最初に手をつけるってどういうことか」「順番が違う」というニュアンスを強く主張しました。保険や公的医療を考えた時に、もちろん潤沢にお金があれば全部カバーすればいいのですが、そうではないことはみんな理解している。ではどうやって優先順位をつけていくかという時に、最後に守るべきところから手をつけるのはやはりおかしいだろうというのが今回の主張でした。
医療経済学として論文になるかどうかではなくて、いかにデータを持って、ちゃんと社会を動かせるかというところが自分のゴールなのです。
──今回の取り組みからビジネスパーソンも学べるところがあると思います。たとえばデータの活用法についてどのようにお考えですか?
五十嵐: データに基づく仕事をしようというのは、私はある意味で諸刃の剣に聞こえる言葉だと思っています。データに基づく仕事をしようというとどうしても、データがこう言ってるからきっとこれが正しいに違いないという結論になりがちです。私はデータというのはあくまで手段に過ぎないと思っています。
よくありがちなのは、「とりあえずデータを買ってみたんですけど、何をすればいいでしょうか?」というパターンです。困ったことにビッグデータというのは、すごく大きなデータを解析すればどこかしらデコボコが出てくる。ここが高くてここが安いぞ、みたいな。そうすると何も考えずに分析をしても、何かしら結論となるデータは出てきます。「データサイエンス」の仮面をかぶっていても、目的なしに出したデータには、何の価値もありません。
まず示したいことや、こういうことがあるんじゃないかという仮説があって、それはデータではなく別の見地から想定できることがある。
例えば今回の問題でいえば、保険の趣旨から考えれば自己負担の上限引き上げから手をつけるのはおかしいじゃないか、という問題意識があった。それを考える上で補助するためのデータは何なのかということを考えるデータであって欲しいんです。
──データ分析の手法だけに注目すると問題が生じるのですね。
五十嵐: ややもすると解析手法で頭でっかちになってしまいます。例えば「このビルのエレベーターの利用者数を見たら34階が一番多かったです」と言われても「だから何なんですか?」という話になってしまいます。分析するだけなら「37階の人が一番チョコレート買ってました」というような結果も出てきてしまう。データが大きければ大きいほど、何となくそれっぽいものが出てしまうというのはむしろ怖いのです。
だからまず「こういうことをやりたい」という問題意識がないといけない。でもそれはデータの解析では学べないことなんです。私は「経験は無いですがデータ解析の能力はあります」という人はむしろ怖いと思っています。データ以外に依拠するものがあって、その専門知識から出てきたものをデータによって裏打ちするようであって欲しい。
それが医療であれマーケティングであれ、なんらかのスペシャリティがあった上で、自分のスペシャリティで直感的に問題意識を持ち、それを可視化する道具がデータであって欲しい。解析頭でっかちにはなって欲しくないというのが一番思っていることです。
西本: 両輪でやることが大事だと思っています。ある分野のスペシャリストがビッグデータの解析の手法も持っているというのは意外と少ないと思うんです。
そこの掛け合わせができるか、あるいは一つの分野のスペシャリストと別のスペシャリストがちゃんと協働できるかどうかというところが意外と重要だと考えています。また、スペシャリストの通訳の役割を担い、課題を解決する役割が、自分のようなプロダクトマネージャー(テクニカルプロダクトマネージャー)にはあると思っています。
五十嵐: そうですね。別に一人が全部できる必要はないです。私自身も正直言って分析のスペシャリストではありません。あくまで自分は「おそらくこういう形で分析をすればきっとサポートできるデータが出せるはず」だと思って、それをプロトコルにして、出てきた結果をちゃんと解釈する。そして数字だけ示しても世の中は動かないから、多くの人に理解してもらえる形に変えていくんです。
もう一つあるのは、データサイエンスってコンピューター相手に行うものと誤解されがちですけど、本当に「人」相手なんですよね。だから西本さんがおっしゃったように色々なスペシャリストが掛け合わさって初めて意味がある。一人で抱え込むと爆発しちゃうので、掛け合わせるためにはコミュニケーションが必要だと思います。
── そういう意味では、今回の取り組みは理想的なチームとして機能していたということですね。
五十嵐: そうですね。
五十嵐、西本: ありがとうございました。
※本記事掲載の情報は、公開日時点のものです。
執筆・編集:大槻 幸夫 撮影:内田 麻美
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